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日本の老人が中国人と共に植樹した武漢の桜、平和をつむぐ縁

2016/3/16 9:08:46   source:人民網日本語版

  3月12日、堤角公園の桜の樹の下で記念撮影する4人。左から趙学東さん、朱漢順さん、村石久二さん、易望学さん。

  3月12日午前、漢口江灘には観光客がごった返し、桜の花びらが風に吹かれひらひらと舞い落ちていた。桜の樹の下では、武漢をわざわざ訪れた1人の日本人の老人と3人の中国人の老人たちがしっかりと抱き合い、挨拶を交わし、記念写真を撮っていた。4人は桜のそばを歩きつつ言葉を交わし、彼らが知り合ってからの十数年の徒然に思いを馳せていた。武漢晩報が伝えた。

  似たような境遇が縁で知り合った4人

  1944年、村石久二さんの父親は武漢で亡くなり、村石さんは遺児となった。彼は彼の身に起きたことと、彼の父の亡くなった場所である武漢をずっと忘れられず、また戦争が中日両国の人々にもたらした深刻な傷跡を深く心にとめていた。2001年、スターツグループの会長となった彼は漢口江灘の環境総合整理が必要だと知ると、中国で1万株の桜の苗を買い求め、それを寄贈し、さらに武漢の戦争孤児3人と共に桜の園に平和記念碑を建てて、中日の末永い平和と友好を願いたいという考えが芽生えたという。彼は武漢市政府の外事弁公室に寄贈の件を申し出ると同時に、市政府外事弁公室の推薦を受けて、当時、市政府で働いていた趙学東さん、市文化局の朱漢順さんと市紀律検査委員会の易望学さんが民間人としてこの活動に参加した。3人はいずれも戦争で両親を亡くし、幼い頃、孤児院で知り合った。

  2002年11月29日、漢口江灘の第一期工事が行われた粤漢埠頭側の土手には「中日友好桜林起工式」の横断幕が掲げられ、周囲には色とりどりの旗が風にはためいていた。市政府の指導者、村石さん、趙さん、朱さん、易さんらは共に桜の樹に盛り土をし、その後、堤角公園でも桜を植樹し桜の園を作ったほか、解放公園、中山公園にも桜を植樹した。

  2004年6月16日、村石さんはわざわざ武漢を訪れ、漢口江灘と堤角公園で行われた平和記念碑の除幕式に参加した。

  当時、共に植えた桜の木

  まだ寒さを感じさせる春の風も、桜を愛でる人々の興をそぐことはなく、古希を迎えた4人の老人は感慨深げに堤角公園の桜を眺めながら、彼らが14年来、共に残してきた記憶の数々を探していた。桜の園は大変にぎやかで、ウェディングドレスを着て撮影する女性が通ったかと思えば、子供を連れた多くの親たちが遊んだり、写真を撮ったりしている。また木の傍では仲間たちが集まって笑いながら写真を撮ったり、芝生に座って花見をしながらゲームしていた。易さんは村石さんに堤角公園は辺鄙な場所だったが、桜の木を植えてから、花見に来る観光客が日増しに増えていると話すと、村石さんはうなずいて称賛した。

  白髪で黒いジャケットに身を包み、濃紺のネクタイにメガネをかけた村石さんが一面の桜を眺める顔には陶酔したような穏やかな笑みを浮かんでいた。4人の老人は記念碑の前で数年前の記念写真を持ち出し、全く同じ場所に同じように立って再び記念写真を撮った。村石さんは趙さんの肩を叩きながら「趙さんは相変わらず元気で若いね。写真で見ると私は随分老けたよ」と言うと、趙さんは「いやいや全然変わっていませんよ。髪の毛は真っ白になりましたが、気持ちは今も若々しいですよ」と返した。

  「平和記念碑」は中日両国の文字で「日中両国人民の末永い友好及び世界平和のために、私達は手と手を取合い、日中友好の桜植樹事業と平和記念碑の設立を行います」と刻まれている。そして落款には4人の老人の名前が刻まれている。村石さんは「桜は友好の花だ。花見に来た人々が私たちが植えた桜の木を見て、桜を植えた時の私たちの気持ちを理解して、皆で平和を唱え、戦争に反対してほしい。戦争は多くの人々から父母を奪い、孤児をうむ。このようなことは二度と起きてほしくない」と語った。

  国境を越えた兄弟愛

  言葉は通じないものの、4人の老人の国を越えた兄弟愛に人々は感動を覚えるだろう。知り合って14年、4人は常に互いにメールや電話をしたり、贈り物を贈り合ったりして、その思いや感謝を伝えあい、連絡を取り続けている。趙さん、朱さんと易さんは今までに2回、村石さんの招きで日本に行き、村石さんの興したスターツグループを見学し、村石さん自身も時間を作って3人と一緒に観光した。また村石さんも数回、武漢を訪れており、その度に3人で何度も江灘と堤角公園を訪れては一緒に植樹した桜を見たり、易さんの家に遊びに行ったりした。

  2011年3月、日本でマグニチュード9の大地震が起き、津波が発生して福島原発の核燃料漏れの危機が生じた。武漢の3人の老人は次々と電話をかけてきて、村石さんや家族、従業員の様子を聞き、彼らが全て無事で大丈夫だったと知り、ようやく安心したという。

  2011年に易さんは「桜花情結」を自費出版し、写真と文章で4人の十数年に及ぶやり取りを記録したほか、自作した動画もDVDにして配った。

  武漢に来る回数が増すほど、村石さんの武漢に対する理解と感情は益々深まっていった。2008年、村石さんは武漢で初めての国際ハーフマラソン招待試合に協賛したほか、2011年にはスターツ(武漢)商務諮詢有限公司を設立し、中日民間交流に新たな橋を設けた。

  ここ数年の武漢の変化について村石さんに尋ねると「武漢の国際化への発展の歩みは非常に早く、私自身も非常に驚いている。武漢の建築スピードはとても速いと感じる。特に江灘公園は以前、桜の苗を植樹する場所を選ぶのに来た時、まだ工事中だったのが、今ではもうきれいに完成している。武漢がますます発展していくことを望んでいる」と答えた。

  そしてまた別れの時が来た。4人の老人は互いの健康を願いながら、握った手をなかなか放そうとしなかった。

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