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青々とした山と川 英雄と労働模範が輩出

2017/4/14 12:05:54   source:中国山東網

  淄博は山東省の中心部に位置し、海抜1108メートルの山東省2番目に高い山の魯山が淄博市の中心部にある。魯山のそばに沂、淄の川があり、青々とした山と川がある上、たくさんの英雄を育ており、焦裕禄、朱彦夫、李振華、孫建博、亓慶良などがいる。

  焦裕禄:故郷の人々を激励する

  1922年、山東省の貧しい農家に生まれる。1946年、中国共産党に入党。1962年12月、河南省蘭考県で県委員会書記に就任する。蘭考県は長年、風砂や洪水などの災害に悩まされてきた。彼は就任後、全県民を率いて風砂防止、治水、土地改良にあたり、自ら先頭に立って模範を示した。風砂がひどい時には率先して風口や流砂を調べ、豪雨の時には腰ほどに水かさが増した洪水の中に入り流れの勢いを観察した。吹雪の時には幹部を伴って住民を見舞い、救済金を手渡した。彼は度々農家や牛小屋を訪れ、農民と寝食を共にし働いた。彼は民衆と自然災害と闘う貴重な経験を少しずつ積み重ね、それが全県民の共通の財産となり、災害に打ち勝つ強力な武器となった。

  1964年5月14日、焦裕禄は肝臓ガンで病死。享年42歳。臨終前、「私を蘭考県に送り返して、砂の中に埋めてほしい。生前には砂丘の治理が果たせなかったが、死後も砂丘の治理を見守りたい」と唯一の要求を組織に提出した。1966年2月7日、焦裕禄の感動的な業績が「人民日報」に長文で紹介され、「毛沢東同志のよき学生、焦裕禄同志に学ぶ」という社説も掲載。その後、全国各紙で数十におよぶ文章が発表され、焦裕禄に学ぼうという熱気が全国で巻き起こった。焦裕禄は各級幹部、特に指導幹部が学ぶべき模範といえる。

  朱彦夫:手と足のない案内人

  1933年7月生まれ、出身地は淄博市沂源県西里鎮張家泉村。14歳から軍隊に入り、百回以上の戦闘に参加、10回も負傷し、47回の手術を受けた。朝鮮戦争で腕と脚と左目を失ったが、伝説の人生はここから始まる。

  故郷に帰った朱彦夫さんは村の書記を担当した。杖をついた朱彦夫さんは8キロ近くの義肢で、畑に赴き農業生産をチェックし、村民たちの生活状況を把握した上、山、川、畑を整え、電力インフラを建設の方針を決め、十数年の努力を経て、たくさんの良い畑を作り出した。また、電力のインフラ建設を行い、妻の協力で、上海、南京、勝利油田、陝西へ原材料の調達などをして、1978年に遂げた。

  1982年から現在まで、朱彦夫さんは定年してから、2冊の自叙伝の「極限の人生」、「男が後悔なし」を発表し、中国のPavel Korchaginと呼ばれている。

  李振華:六十年勤めてきた教師

  1953年、17歳の李振華さんは故郷の南京市を離れて、僻地の沂源県へ教育支援を開始した。

  就職してから、李振華さんは60年余り絶えずに給料の四分の一を出して生活困難な学生を支援した。計2000人の学生を支援し、102万元を寄付した。また、定年後、李振華さんは15000元の貯金と国務院特殊手当てを出して就職した3つの学校に寄付した。李振華さんのけん引で、「振華奨学貧困脱却基金会」の資金は298万元に達した。

  しかし、李振華さんはすごく簡単な生活を暮らしている。タバコを吸わず、お酒、お茶も飲まず、46年前に買った自転車を使い、30年前の腕時計を今も着けている。

  孫建博:車椅子を乗せ 「山」を登る

  孫建博さん、1959年10月に生まれ、現在は山東省淄博市林業局の研究員、原山林場の党委書記を担当している。

  孫建博さんは3歳から足が不自由だ。昔、孫さんは原山林場で陶磁器の店を経営したことがある。1996年、原山林場の場長、党委書記を担当した。

  1990年代の林場は負債が山ほどある。孫建博さんは生態観光プロジェクトを掲げ、みんなを連れて考察し、観光インフラを建設した。業務を拡大するため、足の不自由な孫さんはあっちこっちで出張した。宿泊費を節約するため、孫さんはよく映画館で泊まったことがある。

  原山林場の業務が拡大した時、みんなが奮闘の精神を忘れないように、孫さんは「奮闘記念館」を設立しようとアドバイスした。また、「二次目の起業」を掲げ、特色のある観光区、緑色産業、生態産業、文化産業を立ち上げる計画。

  亓慶良:都市で働くチャンスを諦め

  亓慶良、1952年8月に生まれ、淄博市博山区源泉鎮西村出身。1978年に青島医学院を卒業し、母校で就業を辞め、故郷へ帰ることを決めた。1997年、「博山区十大名医者」の亓慶良さんは市級病院での就業を諦め、過疎地の源泉郷のクリニックを選んだ。

  亓慶良さんが同クリニックへ来たとき、なんの設備もなく、ドアさえなかった。医者たちも3ヶ月の給料を受けなかった。亓さんは諦めずにインフラの整備から努力した。手術室ではクーラーと暖房もなかったにもかかわらず、300件の手術をやった。

  現在、同クリニックは多くの先進設備を整備する有名な病院になった。亓慶良さんは「山東省クリニック院長ベスト10」などに入選した。

  劉昌法:村に住んで貧困脱却をやる第一書記

  焦裕禄さんの故郷の淄博市博山区で、劉昌法の名前は人によく 知られている。「第一書記」として派遣されてから、2つの貧困村を管理し、豊かな村にさせた。

  劉昌法さんは池上鎮の小峰村にいった時、自分で料理を作り、村に住んでいた。数年間の間、春節などの祝日以外、劉さんはほとんど村で暮らし、2~3週くらい家へ帰る。この3年間、劉さんは村で電力網の改造、水の安全、照明インフラ、村の観光、環境衛生施設などのプロジェクトをやった。

  また、2015年、劉さんは博山区石馬鎮西沙井村へ「第一書記」を担当し、半年間で、116万元の資金、100トンのセメントの調達、9つの街の改造、100ヶ所のトイレの改造を完成させた。

  中国山東網

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