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日本も歩んだ「模倣」の道 日本近代工業の歩み

2018/8/10 9:02:12   source:人民網日本語版

  中国はこれまで、西洋諸国から「海賊版大国」、「模倣品大国」とのレッテルを貼られてきた。しかし、実際には、近代世界史全体を見てみると、「模倣品」製造は、新興工業国が、先進国に追いつき、追い抜くための「必殺技」となっており、今や製造業大国となっている日本でさえ「模倣品大国」だった「黒い歴史」がある。日本の経験から、「グレーゾーン」を歩んで、海賊版や模倣品を製造していると、短期的には利益を出すことができても、長い目で見ればそれには限界があることが分かる。「模倣品」を作る現状に満足せずに、それをスタート地点として経験を積み、イノベーションに取り組むことこそが、「模倣品大国」から、「製造業大国・強国」へと進歩する道であると言えるだろう。環球時報が報じた。

  「模倣に明け暮れた戦前戦後」

  近代、各国が工業化と現代商業社会に次々と歩みを進める中、先んじた者が後から追いついた者を「模倣品」製造者と非難することはありふれた歴史における一種の現象であったと言える。例えば、18世紀末から19世紀中期にかけて、工業革命時代へと真っ先に歩みを進めた英国の人々は、ドイツ人が英国の機器や商品を模倣していると叱責し、「ドイツ製」が「模倣品」の代名詞になっていた時期があったほどだ。しかし、その後ドイツは大規模な工業化を推し進め、瞬く間に「模倣品」という汚名を返上した。第二次世界大戦前には、ドイツは、世界の全ての工業技術関連の特許をほぼ独占するまでになっていた。また19世紀後期、明治維新を経た日本の工業は、西洋諸国と比べると依然として立ち遅れていた。短期間で列強に追いつくため、日本はまさに「物から制度に至るまで」の一切において欧米を模倣することで、たちまち「模倣品大国」という名を手に入れることとなった。日本商業史の研究者らも、20世紀初頭から第二次世界大戦前まで、日本は「模倣に明け暮れている」、「知的財産権を無視している」と世界から非難されていたと認めている。もちろん、当時はまだ知的財産権をめぐる世界統一基準はまだなく、それがさらに日本の大々的な「模倣」に拍車をかけ、その責任を問われることもなかった。

  「欧米に学べ」というスローガンの下、20世紀初頭、日本企業は次々と欧米企業をターゲットに研究した。例えば、東芝は当時、視察団を米国に派遣し、米国ゼネラル・エレクトリックとの提携を成し遂げた。そして、東芝は1930年ごろには日本で初となる冷蔵庫や掃除機、洗濯機といった家電商品を次々生産した。こうした家電商品は、その外観から内蔵されている機能までゼネラル・エレクトリック製のものとそっくりで、商標が貼られている位置まで一緒だったほどだ。当時、東芝の技術顧問を務めていたゼネラル・エレクトリックの米国人技術者からは、「あなたたちには自主設計能力がない」と指摘されたという。こうして東芝は、「日本版ゼネラル・エレクトリック」の道を歩むようになった。日本の近代の自動車工業も欧洲の模倣から始まっている。1914年、三菱重工が製造した日本初の量産型乗用車『三菱A型』は、イタリアのフィアットA3-3の模倣品だった。精密機械の面でも、日本企業は、当時の工業技術最強国ドイツに焦点を絞り、第一次世界大戦後に設立されたニコンは商品やブランドなどドイツカール・ツァイスを「コピー」したといっても過言ではない。

  「ターゲットを絞った模倣」

  第二次世界大戦後の日本の製造業の復興に際しても依然として「模倣」をメインとし、その主なターゲットは米国となった。1950年代から、日本は米国に追随するようになり、消費財から最先端技術に至るまで「完全なるコピー」に徹した。さらに、戦後の長い期間にわたって、日本の商業ブランドから社会文化に至るまで米国をその模範としてきた。例えば、老舗食品メーカー不二家は1950年ごろに、マスコットキャラクター・ペコちゃんとポコちゃんを打ち出したが、それは、米国の食品メーカー・バード・アイの広告キャラクター・MerryとMikeのコピーだった。日本の漫画が台頭する以前、米国の漫画が日本のアニメ作家にとっての「作画モデル」となっており、戦後、漫画界の巨匠となった水木しげるや手塚治虫なども、キャラクターを考える際、米国の漫画から発想を得たことが少なくない。例えば、水木しげるの漫画「ロケットマン」は一見したところ、米国の「スーパーマン」と大差ないといった具合だ。

  製造業の面では、戦後、日本企業、特に自動車メーカーが欧米の同業者の「完全なるコピー」を行っている。戦後、日本の自動車生産ライン上で製造された自動車は基本的に欧米で人気の車種の「コピー版」で、「商標」を変えただけのような自動車もあったほどだ。

  戦後の日本のテクノロジー発展はかなりの程度において「技術の模倣」頼りで、商品にそれを集中して応用していた。1960年代末のある調査によると、戦後の革新技術139件のうち、日本が開発した技術は、新幹線を含む5件だけで、基礎科学やオリジナル技術の面で、日本は欧米の先進国と比べてパフォーマンスが劣っている。しかし、日本の外国の技術を模倣、吸収し、それを自分のものにする能力はどこの国よりも優れている。

  「模倣品を超える製品を製造」

  1970年代後半から80年代にかけて、日本経済が急速に発展するにつれ、日米の経済摩擦、戦略競争が激化し、米国は、日本に対して「技術を盗用している」という叱責の声を高めるようになった。ある日本経済史学者は、「海外から猛烈な批判を受けたその『暗黒時代』に、日本はオリジナル製品の重要性を一層認識するようになった。世界第2位のエコノミーに成長していた日本は、模倣やコピーに頼って生きていくことはもうできなくなり、新たな技術革新が促進された」と指摘する。そして、パナソニックや東芝などの企業は独立した商品設計部門を立ち上げた。その後、バブルが崩壊し、日本経済は長期にわたって低迷したものの、危機感を抱く製造業は、高度化の手を全く緩めず、「日本製」は少しずつ「模倣品」という汚名を返上し、世界で高い信頼を得るようになっていった。

  1980年代、日本の経済評論家・森谷正規氏は、著書「技術強国」で、「日本は海外から商品・技術を導入し消費する『3等国』から、他の国の基礎科学成果を活用して新しい応用技術を開発する『2等国』、または『1.5等国』へと進歩している。しかし、新しい分野を開拓し、新技術革命を牽引する『1等国』とはまだ一定の距離がある。日本は模倣で満足し、革新の歩みを止めることはできない。日本は、技術の精密化を図り、ユーザー体験を向上させ、モデルとなった製品を上回る新製品を作り出し続けることによって、『模倣』という思考を捨て去るべき」と綴っている。

  「人民網日本語版」2018年8月9日

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